夜が静寂を取り戻す頃

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孤独老人の「惨めさ」について

高齢の独身者は「惨め」にみるひとがいるらしい。なんとなくその気持ちはわからなくもないが、それに反発したい気持ちもある。

理由が釈然としないからだろうか。私自身が将来その仲間入りする可能性が高いからだろうか。

たんに希少性の問題かもしれないし、10年後20年後には当たり前の光景になっていて、そのような風潮はなくなっているかもしれない。

「下流老人」などと称される(嘲られる)ように、独身老人=貧困という図式が成り立っているからだろうか。たしかに、高齢で彫金がない場合、生活保護などに頼ることになるのは確定だ。それは本人にとって(あるいは外から見たときに)惨めだと感じられるかもしれない。将来生活保護が今の形で継続しているかは分からないので、とりあえず生きていけるだけよいのかもしれない。(水際作戦とかの問題はある、実際にどうなのかは知らない)

それとも、独身であると、孤独な点を惨めだと思われる(思う)のかもしれない。

2030年、日本人の半数近くが「未婚者と死別・離別者」で占められる? - ライブドアニュース

障害独身率は2010年時点でも男性で20%あるらしい。また、2030年、日本人の半数近くが「未婚者と死別・離別者」で占められるらしい。確かに孤独なひとは辛い人が多そうにみえる。しかし孤独だからつらいというより、つらい何かがあって結果として孤独になる場合もあるように思う。(何を隠そう、私も10年近く真性ぼっちといってよい逸材である。)辛いことがある結果つながりを求まる人もいそうだしそのへんは分からない。

何にせよ、パートナーを関係を構築・継続できている人は私から見ても幸せに見える。それとのギャップか。

カリスマニートことphaさんは、結婚を重くとらえていて、緩いつながりを作っていくことを提唱しているらしい。その緩いつながりは、しぬ間際まで継続しうるものなのだろうか。足腰が弱って、満足に外出もできなくなった末でも。そもそもそんな状態になったらさっさと死にたいような気がするが、比較的死ぬ死ぬ論者の私でも、いざその状況になって簡単に死を決断できる気がしないし、現実は難しい。数十年後もそのような残酷な死の形は継続しているのだろうか。現代科学に期待するしかない。科学のせいで神は死んだのに、死の現場はおざなりで、いい加減にしてほしい。幼少期から科学に脳をfuckされ続けたせいで、僕の中の神は瀕死状態である。責任者はどこか。とりあえず恋人がほしい。

Bライフ(あるいは小屋暮らし)で有名な寝太郎氏は、僕の中で身近な存在だ、どう身近かというと、(私と同様に)独身高齢者になりそうな人と言う意味である(大変失礼)。彼の著者のレビューに、若いころはこれでさまにさまになるが、年をとったら惨めだという主張があった。これをみてこの文章を書いているわけであるが、年をとったら惨めというのははっとさせられた。その主張に心底同意したからというわけではなく、このレビューを見て、みんなが何か必死に生きているように見えるのは、惨めに年をとるのを恐れているからではないかという考えが浮かんだからだった。こんな考えが浮かんだということは、私自身も「惨めに」年をとることを恐れているのかもしれない。

年をとって孤独なのが、私のなかの惨めさの中心な気がする。しかしながら、恋愛結婚がはびこる現代日本において、私の精神は恋愛という事象をうまく消化できずにいる。こじらせているのである。ちなみに、寝太郎氏は恋愛経験が人並みにあるらしい、この違い、圧倒的違い!。それはおいておいて、10年後の寝太郎氏は何を思うのだろうか、気になるところである(上から失礼)。

なにが言いたいかよく分からない雑文になってしまった。生まれてこのかた流麗な文章をかけたためしがないため、しょうがない。なにがしたいんだったか。とりあえず希望がほしい。しかし、希望があるから不安もある。 若いときは希望と不安が同居し、年をとると現実を受け入れ、希望を失いマンネリ化する代わりに安寧を得るとどこかで読んだ。下流老人と称される人に安寧はあるのか。それこそ人次第だと分かっているが、それでも気になるものは気になる。何割のひとが安寧を得ていて、そうでない人が何割としれたら満足するのか、統計的に平均化された人格と、私という個を比較してもなんにもならないことはわかっているのに、比較してしまう。比較は不幸せの元な気がするので、その辺をもう少し今度詰めて考えるべきかもしれない。

ていうか寝ようか。